この度、新宮神社様のご厚意に預かり、神社境内にて、愈々『発願の里・信楽 天平令和の発願祭』を実施する運びとなりました。
本企画は、「信楽のために今為すべきことはなにか?」という先祖代々信楽に住み続けて来た有志を始め、縁のある人々の想いから生まれました。三年程前、信楽の魅力を探る中で、今為すべきことは「信楽の原点・歴史を見直し、先人達の想いを知り、未来へ引継ぐ、心のこもった本当の祭りをすることだ」との気付きが出発点となりました。
そして、その中心にあったのは、信楽が「天平時代、聖武天皇が行基和尚とともに大仏の建立を夢見、<発願の地>として選んだ場所であった」という事実。彼らの発願は、後に奈良・東大寺の大仏として大きく結願し、信楽から東大寺へと続くゆかりの糸は今でも二月堂修二会の伝統の中に残されています。
この度の発願祭では、上記の史実を礎に「聖武天皇と行基和尚の夢供養」という趣向で、聖武天皇の発願から今日に至る信楽の歴史・文化・精神性の繋がりを顕したいと考えています。そして信楽を<発願の里>とすることで、将来この土地に多くの人たちが訪れ、この国の安寧・家族や友人関係の円満・或いは未来への夢や心願を発願する聖地となることを祈念するものです。
基本となる考え方
『発願の里・信楽 天平令和の発願祭』では、信楽を〈発願の里〉と位置付け、左記に挙げる信楽ならではの特徴と結びつけることで、本来この土地が持っていたはずの《高い精神性・文化性・祈り》といった側面を未来価値、未来資産として提案・発信していきます。
1.聖武天皇と 発願の里・信楽
信楽は陶芸の町として有名ですが、天平時代に聖武天皇が大仏(後の東大寺の大仏)建立の発願を立てた〈発願の地〉であることは全国的には未だ知られていません。しかし、発願の詔は「人々や動植物すべての生命の安寧を願い」「事業の趣旨に賛同する民衆の自発的な参加を求めた(今でいうボランティア)」点で、高い格調と現代にも通じる精神性を持ったエポックメイキングなものであり、このような発願が歴史上、信楽の地で為されたという事実を信楽の原点として重要視します。
2.行基・知識衆・陶工(すゑものつくり)の系譜
聖武天皇の発願の趣旨に呼応し、行基和尚は民衆に働きかけ、詔の二日後には民衆の力による大仏造営事業を開始したといいます。ここで活躍した自発的に慈善事業に参画する民衆(今でいうボランティア)のことを「知識(ちしき)」と呼びます。聖武天皇は、行基の率いる「知識衆」を大いに評価し、紫香楽宮への遷都期間中に行基に対し、仏教における最高位である大僧正の位を授けます。一貫して民衆側に寄り添う在野の遊行層と見なされてきた行基が朝廷に大抜擢された瞬間でした。
この天皇と民衆の類い稀な関係性が公に認められる形で実現した最初の地。この事実は信楽の未来へ繋がる原点として価値あるものとなるでしょう。さらに、行基は各地に行基焼(須恵器)を広めた人物でもあります。琵琶湖の南には古くから製陶技術をもつ人々が住んでいました。行基と彼の知識衆がこうした人々の力を借りて大仏造営・遷都事業を進めようとしたことは過言ではないかと思われます。この陶工たちが現在の陶工と結びつける資料は残っておりませんがそうした夢を馳せることも可能なのではないでしょうか。
3.母なる琵琶湖のエネルギー・朝宮茶など
もう一つの重要な原点として〈信楽の土〉があります。聖武天皇が大仏建立の地になぜ信楽を選んだのかについては諸説あるようですが、確かな事として信楽の地は、かつて世界有数の古代湖である琵琶湖の底にあり、信楽の土は、「何十万年も前に古代湖琵琶湖の底に堆積した土」であるという事実です。
4.天平から令和へ
今年の五月から始まった新元号「令和」。その典拠は『万葉集』、天平二年に大伴旅人等が太宰府で催した宴の様子を示す一文と言われています。
天平時代は、「天平文化」と賞されるごとく華やかな時代であると同時に、天平元年の年に起きた政変に始まり、かんばつ・飢饉・凶作・大地震・天然痘の大流行などが相次いだ国難が絶えない時代でもありました。
歴史を繙けば、令和の典拠となった天平二年の出来事と、その後の国難に対処すべく、聖武天皇が新たに遷都した紫香楽宮において大仏建立を発願した天平十五年の出来事は、一直線に繋がっているとさえ言えるのです。令和の時代に、再び天平の世に想いを馳せ、聖武天皇と行基の心中を顧みて、この国の安泰を発願することは意味があることと考えます。
上述の考え方に基づき、信楽を〈発願の里〉と位置付け、信楽が潜在的に持つ強力な価値を未来へと引き継ぐためのイベント=発願祭を左記の概要で実施いたします。今回の趣向として、プロジェクトの意義に賛同頂ける方による少人数であっても〈本物〉を招いた〈真剣な祈り〉の場を作れたらと考えています。
(補足)
聖武天皇とは
聖武天皇は、日本の第45代天皇(701年-756年、在位は724年-749年)。
仏教に深く帰依し、全国の国分寺や東大寺の毘盧遮那仏、正倉院の宝物など、多くの仏教文化をこの国に遺したことは有名です。また、天平12年から約10年間の間に平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京を経て平城京に戻るまで目まぐるしく遷都を行った天皇でもあります。しかし、その真意は未だ謎のままといわれています。
行基と知識衆
行基は、奈良時代の僧(668年-749年)。朝廷に弾圧されながらも一貫して民衆側に寄り添う在野の僧で、行基集団(知識衆と呼んだ)を形成し様々な社会事業を行いました。
聖武天皇が信楽で大仏建立発願の詔を発した際には、行基はすぐに民衆に働きかけ詔の二日後には大仏造営事業を開始したといわれています。聖武天皇は行基と彼の知識衆を評価し、行基に仏教における最高位である大僧正の位を授けました。