この地で鳳凰を呼ぶ、笙と竽(う)の響き・・・

聖武天皇、光明皇后がいらっしゃらなかったら、「雅楽」という芸能は日本に残っていなかったかもしれない。
遠く、ペルシャ、インド、中国を渡ってきた楽器もそれらが生まれた地にはすでになく、正倉院に遺っていたからこそ、復元されたものもある。
敦煌の壁画に描かれた天女がもつ楽器も「空想のもの」、と思われたものもあったそうだ。それほど、文化というものは時間とともに消えゆく。

聖武天皇、光明皇后、そして、正倉院を守り、現代に伝えてきた東大寺の僧侶をはじめ、皇室の方々。みなその宝の数々に目を奪われ、技術に心打たれ、ものから発する響きに酔いしれたように思える。また、その度に聖武天皇、光明皇后と心を通わせた瞬間もあったかもしれない。日本という国、国民にはどこか、昔のものを失くしてはいけない、という心が働くのだ。

それは未来ばかりを追っていては生きていけないことを知っているからだ。遠い過去の歴史の中にこれからを生き抜く力があることを無意識ながらに認識している。

今回、雅楽の音を奏でてくれるのは田島和枝さんである。
田島さんとは彼此長い付き合いになる。いつも無理なお願いを聞いていただいてきた。
田島さんの笙はすごい。いつも鳥肌が立つ。天を清め、開けていく、そんな力があるように思われる。
正倉院復元楽器の「竽」も登場する。深く、遠い過去からなにかを連れてくる、ような響きがある。

雅楽の音は季節を示す。我々がとうの昔に失った自然界の音をもそこに表出させる。
ああ、天平の時代の「秋」はこういった風だったのだな、と感じ入ったりする。
脳の隅々にまで行き渡る、あの音の感覚は他の「音楽」とは全く異質のものである。

田島さんは「敦煌を奏でようと思う」という。
「敦煌」とはまさにシルクロードで多くの異国の民が行き交った場所。
聖なる遺跡が遺る場所。

まさにこの祭にふさわしい、と思える。
聖武天皇、行基がこの国を平安に導くためには「仏教」を導入すべきである。
仏教的知見でこの国を導こうとした。

仏教とはいまや宗教と思われているが、本来は神道同様に自然な摂理から生まれたもの。
多くの人々が経験した様々な苦難を乗り越える知恵が凝縮している。

笙と竽は鳳凰が羽を休めている姿である、という。
陶工の里に、鳳凰を再び呼び、蘇らせる、そんな始まりを
感じてもらえるのではないだろうか。